コラム
藤田 嗣治 (レオナール藤田)
- 2019.03.29
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藤田 嗣治 (レオナール藤田)
おかっぱ頭に丸眼鏡がトレードマークの藤田嗣治。
『20世紀初頭で最も重要な日本人前衛画家』ともいわれる藤田嗣治をみていきましょう。
藤田嗣治は1886年(明治19年)に東京市牛込区(現在の東京都新宿区)の医者の家に4人兄弟の末っ子として誕生しました。
母(藤田政)は旧幕臣小栗信の次女。嗣治が4歳の時に他界しました。
父(藤田嗣章)は大学東校(東京大学医学部の前身)で医学を学び、後に軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携わりました。後に森鴎外の後を受け、最高位の陸軍中将軍医総監を務めた人物でもあり国を担う見識と格調を備えた明治人でした。
兄の嗣雄は法制学者、上智大学教授です。嗣治は、格式を備えた家庭に育ちました。
嗣治は子供の頃から絵を描くことが好きな子供でした。1893年に東京高等師範学校附属小学校に入学しました。この頃からすでに才能を開花させていきます。1900年に行われたパリ万国博覧会に日本の中学生代表の1人に選ばれ、水彩画を出品するまでになっていたのです。
父(嗣章)は嗣治の将来を「軍人もしくは医者」のどちらかを選んでほしいと考えていました。そんな父に、同じ家に住みながら画家になることを訴える手紙を郵送したのです。父は嗣治に黙って返書を手渡しました。その中には十円札五枚が入れられていました。父(嗣章)は息子の背中を押したのです。嗣治はそのお金で絵の具一式を買い揃えて、はじめて油絵を描いたのでした。
嗣治は中学校に通いながら将来を見据え、ひそかに暁星学校夜間部でフランス語を学びます。本多錦吉郎の画塾「彰技堂」に通い、1905年に森鴎外の勧めで東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)西洋画科に入学をしました。
しかし当時の日本画壇はフランス留学から帰国した黒田清輝(主任教授)らのグループにより改革の真っ最中で「印象派」や光にあふれた「写実主義」がもてはやされていて嗣治の作風は受け入れてもらえませんでした。
表面的な技法の授業に失望した嗣治は、同級生らと観劇や旅行、吉原に通いつめていました。
卒業成績は30人中の16番。
嗣治の卒業制作『自画像』は黒田清輝が忌み嫌った黒を多用し、その評価は「悪い作品の例」に挙げられるほどでした。
卒業後、三年続けて文展に出品しましたが黒田清輝らの勢力が支配的であったせいか全て落選しました。
1912年に写生旅行で訪れた木更津海岸で鴇田登美子と知り合いました。彼女は当時、東金高等女学校教師をしていました。
2年後の1912年に結婚をします。しかし1913年(結婚およそ半年後)にはフランス行きを決意し妻を残して単身でパリへ渡航するのです。
フランスへの旅立ち
渡仏した藤田はパリのモンパルナスに住まいを構えました。家賃の安さで芸術家や画家が多く暮らしていました。
隣の部屋に住んでいたのが後に「親友」と呼ぶことになったアメデオ・モディリアーニやシャイム・スティンらでした。
彼らを通じて後のエコール・ド・パリのジュール・パスキン、パブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、モイズ・キスリングらと交友を結び、藤田はフランスでは「ツグジ」と呼ばれました。(嗣治の読みをフランス人にも発音しやすいように変えたものです)。
フランスで目にしたものはキュビズムやシュールレアリズム素朴派など。新しい20世紀の絵画に大きな衝撃を受けます。
日本で「黒田清輝流の印象派の絵こそが洋画」だと教えられてきた藤田は自由で奔放な絵画に魅せられ、今までの作風を全て放棄することを決意しました。
この時代はピカソやキスリングの絵画にようやく目を向けられるようになり出した頃でした。第一次世界大戦が勃発すると藤田にも退去命令が出ましたが、赤十字の志願看護夫を務め戦時下のパリに踏み止まります。そのうちに日本からの送金も途絶え、生活は困窮しました。パリでは絵が売れず、食事にも困る中ひたすら画業に励みます。こうして描きためた5000枚ほどの作品15枚ほどを残し、暖をとるためや炊事のために燃やしていました。
厳しい生活が2年ほど続き大戦終末になると、絵の具をとく油もないのでグラッシュやパステルで描いていました。
そんな中、カフェでモデルでもあり女流作家のフランス人、フェルナンド・バレエと出会い2度目の結婚をします。
フェルナンド・バレエは藤田と出会った当初は、言いよってくる彼を完全に無視していました。しかし次の朝早く、藤田が一晩で作った青いコサージュを持ちフェルナンドの部屋に訪れます。その後13日後に結婚を決意したのです。
藤田の才能を見抜いたバレエは絵を描くのをやめ献身的に彼の絵を売り歩きます。しかし名もなき東洋人の絵はなかなか認められませんでした。
妻フェルナンドや貧しいながら高い志をもったモディリアーニなどの画家仲間の支えもあり、徐々に藤田の絵が売れ始め1917年6月には伝統的なパリのラ・ボエシー街のシェロン画廊での最初の個展を開き、1921年サロン・ドートンヌでは、藤田の描く「乳白色の肌」の精緻な表現が絶賛を集め、絵を出す度に黒山の人だかりができました。こうして藤田の名はフランスでは知らぬものはいないと言われる程の人気を集め確固たる地位を築き上げました。1925年にはフランスから『レジオン・ドヌール勲章』、ベルギーから『レオポルド勲章』を贈られました。
急激な環境の変化や藤田の不倫などの末、妻フェルナンドとは離婚をします。
その後、新しい妻リューシ・バドゥ(藤田がお雪と名づけた)と結婚をします。
しかしお雪には問題がありました。詩人のローベル・デスノスとの愛人関係や酒癖の悪さもありその後離婚。
1932年には、新しい愛人マドレーヌを連れ個展開催のため南アメリカへ向かいました。南アメリカでは大きな賞賛で迎えられました。後にマドレーヌはフランスで急死します。
1933年には日本に帰国し25歳年下の堀内君代と出会い結婚。1938年からは1年間従軍画家として日中戦争中の中華民国に渡り1939年日本に帰国しました。その後再びパリへ戻りましたが第二次世界大戦が勃発。再び日本へ帰り戦争画の作成を手掛けました。この振る舞いは終戦後の連合国軍占領下の日本において「戦争協力者」と批判されGHQからも聴取を受けるなど身を終われる事となります。こうした日本国内の情勢に嫌気がさした藤田は1949年日本を去りフランスへ戻ります。
フランスでは既に多くの友人画家がこの世を去るか亡命しており、藤田の帰還はマスコミから亡霊呼ばわりされます。
しかし藤田はその後もいくつもの作品を生みだします。再会を果たしたパブロ・ピカソとの交友は晩年まで続きます。
1955年、藤田はフランス国籍を取得。1957年にはフランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリ工章を贈られました。
1959年、フランス大寺院で君代夫人とカトリックの洗礼を受け洗礼名レオナルド・フジタとなりました。
1968年に81歳で亡くなります。フランスではフジタのことをパリジャンとしてモンパルナスを愛し、パリを活気づけてくれた人物として今も愛され続けています。
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