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コラム

ミキモト パール

  • 2018.11.22
  • カテゴリ:

「ミキモト」という言葉を耳にすると、多くの人の頭に浮かぶのが “パール”だと思います。

オーソドックスでシンプルなフォーマルスタイルに合わせたものから、

大小さまざまなサイズやブラックパール、ゴールデンパールといったカラーバリエーションを楽しめるもの、職人が技巧をこらしたゴージャスなデザイン。

母から娘へと引き継がれ愛されるにふさわしいブランドのひとつが、このミキモトジュエリーだと思います。

 

 

 

ミキモトの歴史

 

このミキモトを作っていったのが創業者の御木本幸吉です。

幸吉は1858年に鳥羽のうどん屋「阿波幸」の長男として生まれました。

幼い頃より家業を手伝いながらも青物や海産物などの商品の仕入れや販売などを手掛け、「商人」としての経験や実績を積み上げていきました。

 

幸吉は20歳になると同時に家督を継ぐことになりました。

ある時、東京と横浜へ視察旅行に出た幸吉は、横浜で立寄った外国商館で驚くほどの高値で取引をされている伊勢志摩産の真珠を目にすることになるのです。

これが、幸吉と真珠との運命的な出会いで“ミキモトの真珠”が生まれることになるのです。

 

その頃、天然真珠が高値で売れるということもあり真珠の濫獲が進み伊勢志摩のアコヤ貝が絶滅の危機に瀕していました。

今のままではアコヤ貝が絶滅してしまうと考えた幸吉はアコヤ貝の養殖を行うことを決意しました。

 

いろいろな方の力を借りて、実験を進めて行く幸吉でしたが、期待をしていたほど多くの真珠を生み出すことが出来ませんでした。

 

そんな時、知り合いから「真珠に詳しい人物がいるらしい」という情報が入り早速、コンタクトをとりました。

その人物とは、東京帝国大学教授の箕作(みつくり)佳吉(かきち)理学博士でした。

箕作(みつくり)は動物学の権威で真珠研究の第一人者でした。

彼の研究によると、天然の真珠が生まれるプロセスは“何らかのきっかけにより貝の中に異物が入り、その異物を包むようにして真珠層が形成されていき真珠になる”ということでした。

しかもその工程は、「理論上では人の手によっても出来るはずではある」ということ。

そして、何よりも幸吉の心に火をつけることになったのが

今のところ世界中どこを探しても未だかつて誰も成功をしたことがないということでした。

この「誰も成し遂げたことがない」というところに幸吉は価値を見出し、必ず自分が成し遂げてみせるという強い決意のもと養殖真珠の実験に没頭していくのです。

 

幸吉は、妻のうめと一緒にひたすらアコヤ貝の中に色々な欠片を入れ、数か月後に開いて確認をするという作業を繰り返しました。

しかし、いくら繰り返しても貝が異物を吐き出してしまったり、残っていたとしても真珠になることはありませんでした。

 

何の成果も無く時間だけが虚しく過ぎ資金も底をついていきました。

そんな時、追い打ちをかけるように大規模な赤潮が幸吉の5000個の貝を襲うのです。この赤潮の発生で英虞湾の貝はなんと、全滅をしてしまったのです。

 

幸吉は気力もやる気も失い、養殖真珠を作ることをやめようと考えました。

しかし、妻のうめはやめることを認めませんでした。

「まだ終わっていません。鳥羽の相島(おじま)の貝があります」と言葉あつく幸吉に訴えました。

 

何かあった時のために幸吉は、鳥羽の相島で1000個の貝を育てていたのです。

赤潮の被害を逃れた相島のわずかな貝で最後のチャンスにかけたのです。

 

そして、いよいよその日がやってきました。

いつもと同じように幸吉と妻のうめで数カ月前に異物を入れた貝の確認をしていました。

 

うめが大きな声で幸吉を呼びました。

急いで駆け付けた幸吉に1つの貝をうめが差し出しました。

うめの手の中にある貝には夢にまで見た半円真珠が出来ていたのです。

1893年(明治26年)7月11日、誰もが“出来るはずがない”と言っていた養殖真珠を幸吉が誕生させた瞬間でした。

 

1899年、念願の日本初真珠専門店「御木本真珠店」が銀座にOPENしました。

幸吉は日本国内にとどまらずロンドン、ニューヨークなど世界7カ所に支店を開店しました。

1986年にはパリのヴァンド―ム広場に東洋でただひとつのハイジュエリーショップとして店を構えています。

 

しかし、大きな困難を乗り越えてきたミキモトに、またもや試練が訪れるのです。

1921年にロンドンの新聞の記事で「ミキモトの真珠は天然真珠の模造品であり、それを売るのは詐欺商法」だと伝えられたのです。

時間と共に騒動はどんどん広まり、養殖真珠に対して“模造品”という疑いの目を向けられる事になりました。

信頼を取り戻すには裁判で勝つしかないと考え、フランスで3年にも及ぶ民事裁判を戦いました。

 

この裁判で学者から「養殖真珠は天然真珠と変わらないものである」と証明され、1924年にミキモトは勝訴を勝ち取りました。

以降、この「パリ真珠裁判」をきっかけに養殖真珠ミキモトの評判は世界中にさらに広く認められていったのです。

 

各国で開かれる万国博覧会では養殖真珠で作った日本の五重塔などを出品し数多くの賞を受けました。

 

順風満帆に見えていたミキモトでしたが、1930年代にはいり、養殖真珠が多く普及し始めると粗悪で安価な真珠が市場で出回るようになりました。

このような状況に危機感を抱いた幸吉は神戸商工会議所の広場で粗悪な真珠を集め焼却をしました。

こうする事により日本の真珠の品質の維持を世界にアピールしたのです。

 

1940年、幸吉が82歳の時には戦時中のぜいたくを禁止する奢侈品等製造販売制限規則が施行されました。

真珠の養殖事業が禁止されたのです。

終戦後もGHQにより真珠の一般売買が禁止され、なんと1949年まで続いたのです。

ようやく真珠取引が解禁されると一転して真珠の輸出促進が国によって推進され、ようやくミキモトの復興も進んだのでした。

幸吉の「世界中の女性たちの首を真珠で飾りたい」という願いは120年以上にわたりしっかりと引き継がれ今に至っているのです。

 

ミキモトは品質を守る為に自社で「真珠研究所」を所有し真珠養殖に関する研究を現在もおこなっています。

こうした研修施設を持っているのは世界のジュエリー業者の中でも多くはありません。

ミキモトの「独創性」「創造性」は、国際コンテストで賞を獲得する世界トップレベルのデザイナー約20人が支え、数々の魅力あるデザインを生み出しています。

全国1000店舗以上 安心・信頼の買取専門店おたからや目黒店

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